
23日も朝は早い。7時前に太宰府に到着するような予定を組んでいるからだ。西鉄こと西日本鉄道でそんなに時間はかからない距離である。実際あまりにもあっけなく着いてしまった感があるが、それでも664年に大宰府を防衛すべく築かれた「水城」をばっちり見た。しかし何分走行中の列車内からとあって、カメラに収める暇はなかったのが惜しい。

左:太宰府天満宮 右:大宰府政庁跡
901年に菅原道真が藤原時平により大宰権帥に左遷され、2年後に大宰府で没した話はあまりにも有名であるが、この後都で雷による災害が多発して、これを道真の祟りと考えた人々は本来雷や雨に関係する神だった天神と道真を同一視するようになった。さらに道真が文人であったために学問の神様という側面が加わった(菅原家がそもそも学者の家柄)。全国津々浦々天神とか天満宮と名の付く神社は多いが、太宰府天満宮はその中心とも言うべき存在で、味酒安行という人が905年に廟を営み、社殿は藤原仲平の奉行により919年に造営されたという(現在の社殿は1591年小早川隆景再建のもの)。また太宰府天満宮のある場所は、道真の遺体を乗せた牛車の牛がいきなり臥せってしまい、そこで道真を葬ったとされる場所でもある(それで天満宮や天神社には牛の像があるわけだ)。
そんな太宰府天満宮に到着したのが7時にもならないくらいの早朝だったので、境内には人はまばら・・・と思ったら大間違い。案外人はいるのである。さすがに若い人は殆ど見かけず、お年寄りの姿ばかりであったが、こういう方々と一緒にお社にお参りというのは、僕にとっては相当に贅沢な時間だった。そのうちの1人から観光案内地図まで頂き(と言うことは観光協会か何かと見た)、有難きことこの上なし。周囲も緑が濃く、空気が澄んでいて気持ちいい。こんな気持ちも店がどこも開いておらず他に観光客も殆どいない朝だからこそ味わえるものだろう。
さて、次の大宰府政庁跡であるが、時間の関係から当初は予定に入っていなかった。ところが、太宰府天満宮の拝観がかなり早めに終わったうえ、西鉄太宰府駅からそれなりの頻度でバスも出ているとあって、行かない手はないと思い、結局降り立ったのである。なお大宰府について一応記すと、西海道とその周辺の統治にあたった行政府で、『日本書紀』によれば「那津官家」がその起源とされ、現在地に移ったのは白村江の戦いの後である(その後一時廃止されたこともあったらしい)。また表記は「大宰府」であって「太宰府」ではないから注意が必要だ。
降り立って、まずはその想像以上の広さにびっくり仰天してしまった。はっきり言ってしまえば、並の大きさではなかった。写真で見るようにここも周囲はごく低い山で、しかも他に遮るものがないため、空がとにかく広い。これまた何と贅沢な空間なのだろうと、太宰府市民が羨ましくなってしまった。しかし一方でこの遺跡も保存するかどうかが議論の種になったことも事実であるし、また建物が復元されていたら、空は狭くなってしまう。このまま一種の広場としても大宰府政庁跡が「生きて」いくことを願ってやまない。
ここからは西鉄の都府楼前駅まで歩き、次の西鉄二日市で下車。そこからバスでJRの二日市駅まで行って、そこから一気に吉野ヶ里公園駅に向かった。行き先は駅名からもわかるとおり吉野ヶ里遺跡に他ならない。

左:発掘中の住居跡 右:「主祭殿」
はじめは佐賀県の工業団地を造る計画だったのが、1986年からの発掘で弥生時代最大規模と目される遺跡が出てきて、2001年にはとうとう国営公園になった。吉野ヶ里歴史公園はこのような過程を経て誕生したもので、全部が完成しているわけではない。遺跡の部分にしても、建造物の復元はまだまだこれからといった趣で、あちこちに工事中であることを示すフェンスが目だった。「遺跡の部分にしても」と書いたが、吉野ヶ里歴史公園は遺跡部分のみならず、だだっ広い広場も併設されており、何でもかんでも「まるで弥生時代」にしようとしているわけではない。
この公園、面倒なことに吉野ヶ里公園駅と次の神埼駅の丁度中間に位置している。従って炎天下をけっこう歩かされたが、途中に「赤米の田んぼ」なるものを発見したりして、なかなか悪くない(ただ赤米は本当に弥生時代に作られていたという物証はない)。15分ほど歩いただろうか、見ればやたら巨大な建物(歴史公園センター)が「一面田んぼだらけ」な景色の中で威容を誇っている。一応有料なので入場券を買い中へ。入ってすぐの所に「今後の学界の展開次第では復元建物などの修正も必要と考えている」という意味の文言を発見したが、吉野ヶ里遺跡の、ひいては弥生時代の建物を復元したと言っても、それは決定版ではないということをアピールするのは、学問上のみならず我々一般人にとっても非常に大事なことであろう。
さて、ここからが大変だった。一体面積はどれくらいあるのかと困惑してしまうくらい、楼閣などは見えるのに一向にそれらが接近してこない。そうしているうちに8月23日現在オンタイムで発掘が行われている場所に行き着いた。公開されていたのは例えば環濠だとか、写真にあるような住居跡だったが、発掘作業が現在進行形で行われているわけではないので、その辺が少々物足りない気もした(夏の真昼間では無理もないか)。また、どうせならこういう風に、遺跡を埋め戻さずに直に見られるエリアが1つくらいは欲しい。何でも復元していいというものでもないだろう。
復元された集落は凡そ2つに分かれている。まずはそのうちの「南内郭」に入る。その規模は「北内郭」に比べると小さいが(但しまだ完全に復元が終わったわけではない)、見つかった遺物から考えて王クラスの人間が住まっていた可能性が高いという。そんな謂れを持っている割には人は少ないもので、本当にぽつりぽつりと見かける程度。多くは「北内郭」に入っているようだ。
ここからちょっと南にある「弥生時代風の」水田をちょっと見てから、「北内郭」へと進む。予想通り人が多い。近傍の甕棺墓列や一種の祭祀跡とされる北墳丘墓の辺りに人がまばらなのと対照的だ。まあ、「北内郭」には写真に見るようなでかい建物があるから仕方がないのかもしれないが、もっと隅々まで見ればまた違った楽しさがあるのにとも思ってしまう。ここにも物見櫓があり、眺めはなかなかのものだ。また、集落の各所には鳥の人形が魔除けなどの目的で据えられていたが、これが鳥居のもとになったとも言われる(実際鳥の人形が乗っかった鳥居があるそうだ)。
このあたりまで来たところで暑さも最高潮に達し、時間も来たので土産に赤米を(笑)買って引き揚げた。吉野ヶ里公園から出雲市まで、413.4qの旅の始まりでもあった。以下は移動に使った列車たち(一部)である。
移動中は寝たり覚めたりが続き、殆どの時間寝ぼけた頭でいた。それでも列車が交直セクションを通過するために室内灯が消えた時や、関門トンネルを越えた時は、これで九州を離れるという思いにちょっと切なくなった。山口県に入り、小郡で暫く待って、山口線で一気に日本海側へ抜ける。ところが、この山口線は、県庁所在地たる山口市へ通じる唯一の鉄道である割には全くのローカル線なのだ。そのせいではないだろうが、山口駅前は随分と寂しいものだったと記憶している。途中SLとも行き違いつつ、島根県の益田に入る。益田でも時間があったのでちょっと駅近くのコンビニに寄ったが、駅前はどこかどんよりしていたように思う。時間は既に夕方だったので、それが作用していたのかもしれない。ここからは山陰本線で一旦浜田まで出て、そこから快速アクアライナー(何がどう「アクア」なのか凄く知りたい)に乗り込めば、あとは乗り換えなしで出雲市に着く。で、着いたのは夜9時過ぎだった。出発は午前中だったから、10時間くらいは消費したことになる。それだけ移動すれば疲れもたまる。明日に備えさっさと寝た。